No.34
233: ◆MJNF8eSNUw:2022/12/18(日) 23:00:54 ID:86iqXsq.0
――お前を彼氏の家に送り届けるたびに通るこの道、この、ガードレールもなく切り立った崖の脇にある狭い、危なっかしい道を運転していると、どうにもおれは虚しくなるんだ。
分かるか? おい、伊藤。
バックミラーに写る伊藤は真冬なのに短いスカートを履いて脚を組んでおり、馬鹿馬鹿しい色気に盛岡は眉根を寄せた。
よくこのがたがたしたなかで、小さい画面に食い入って、酔わずにいられるな。
――返信してるの、別にいいでしょ。盛岡にはほんとあたまがあがらないよ、ありがとうね。
顔を上げずに指先で彼氏に、もうすこし時間がかかりそうだと告げていると、
向こうはとんでもない速さで泣き言や愚痴やいいがかりを捲し立ててくるが、伊藤は面倒だなと思いつつ楽しんでいた。
つよい独占欲を感じて、それをこれから一身に授かる期待に浮かされているようだった。
――まったく虚しい、虚しい。すこし風を入れてもいいか? おれが酔ってきた。
――いいよ。
――盛岡は運転席側の窓をほんの少しだけ開けて、伊藤がなにも反応していないと分かると、
もうすこし、もうすこしと窓をおろしてゆき、半分くらいまで下げてしまった。
風が寒くて心地よいのに、虚しいという言葉で紛らしていた独り身の寂寞感が骨身に沁みてゆく。
――人生ってこんなもんなんだろう。
おれは伊藤のことなんてなんとも思っていないつもりなのに、あの、これから男と性行するまえの色気にありつきたいために、
恋でもない性欲と、いちばん密接になりたいからって、こうしてあいつを、彼氏の家に連れて行ってるんだろうな。
――音量、下げてもらっていい? ちょっと疲れちゃって。昭和とかの歌謡曲だっけ。ごめんね、あんま好きくなくて。
伊藤は彼氏からたびたび、この運転手の男との関係をしつこく難詰されて大喧嘩をしており、今もその最中であって、
また、講義の課題に手をつけていないこともあり、苛立ちを通り越した疲労のなかにいた。
盛岡とは絶対に、そういう関係になるわけがないとわかっているから安心していられる。
だから、彼がミラー越しに私の腿のあいだをのぞこうとしていても咎めない。
それに、このでこぼこ道をやさしく運転してくれてるから、眠ってしまってもいいとすら思えてしまう。
――ちがうやつにするよ。
――うん。
――文学の授業、課題だるいよな。
――伊藤は盛岡が話したがっていると気づいていた。
日ごろの恩もあるし、今日は付き合ってあげてもいいかな。
どんなのだっけ? 寝てておぼえてない。
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234: ◆MJNF8eSNUw:2022/12/18(日) 23:01:30 ID:86iqXsq.0
――小説書けってやつ。一万字以内。無理だろほんと。
――きっつう。えー、やだなあ。
――伊藤、どんなの書く?
――盛岡は?
――おれ?
――てかさー、どんな話が好きとか、あるの?
盛岡は寂しがり屋で不細工だけど、人生で他人と長く会話した経験に乏しく、なのに他人を見下している節があるくせに、
自己開示の欲求がとても強く、促されることに喜びを覚えていると知っているから、伊藤はリップサービスを送った。
私の人生もこいつの人生も分類は異なれど虚しいものどうし、わかるところがあった。
――虚しいつながりで、虚しい話が好きだな。
盛岡は流暢に話す心情に切り替えて、伊藤が促してくれたことにうれしく思いながら、しかし微笑も浮かべず取り澄ましていた。
曲がりくねった崖の道の先から、対向車が来ないように祈った。
下の疎林から風がひゅう、ひゅうと、喘息で詰まった喉のような音で吹き上がっていた。
――暗い展望のある物語だ。
自殺したい気持ちを人生と共に擲った魂が入水するまでの話だよ。
――むつかしそう。すごいね。
――おれの説明が小難しいだけで、とっても読みやすい文体だ。
扱っている題材や、主人公とヒロインの対立関係、いや、似て非なる二人の邂逅と別れってのも、読者に想像の幅を広げさせてくれて面白いんだ。
――言ってること、漠然としすぎててよくわかんないんだけど。
――ごめん、そうだな……情けない男を思い浮かべてみてくれ。
――盛岡みたいな? あるいは彼氏だろうか、と伊藤は心で囁く。
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235: ◆MJNF8eSNUw:2022/12/18(日) 23:02:13 ID:86iqXsq.0
――え、いや、それでもいいけどさ、うん。
さて、ある日そいつが目覚めると、そいつの隣で、そいつの人生が死んでいた。
――待って。人生が? なんで生きてんの?
――そういう世界観なの。まあ、ファンタジーというか、幻想怪奇小説的なやつで。
――ほー。
――そいつにとっての人生ってのは、あらゆる不安が積み重なった重荷にしかすぎないけれども唯一無二の親友みたいなもので、持病のようなものだな。
で、その人生の最後に残したダイイングメッセージの紙片には、
『古来、最も美しき自殺の作法は入水によるものと決まっている。
幸いにもN市S地区界隈に、昨今のダム工事の影響で水底深くへ沈んだ無人の村があるのだ。
そこには、君と密接に繋がる舞台が用意されていることだろう……。
以下にS地区の地図を記す――』
――えらそうな口調の人生だね。
えっと、人生が死んだ主人公は、魂だけになった、いわば抜け殻のような、というか残滓のようなものってことでいいんだよね。
――口がわるい。
――あんただから別にいいでしょ。
――まあ、それで形骸の魂は人生の遺言に従って、入水に臨むっていうのが、ほんとざっくりしたあらましだ。
――まって、どうしてせっかく人生が死んで肩の荷が降りた主人公は、わざわざそこに入水自殺をしにいくわけ?
――人生が死んでいるのに魂だけ生きていられるわけがないだろう。
あまつさえ、長年連れ添った人生が甲斐甲斐しくも気を遣って、最も美しい最期を飾らせてやろうとしているんだから、
その意を汲んで心中、もとい、回帰してゆくのは、道理に適っているじゃないか。
それに、煩瑣な人生が亡くなったことで、主人公は長年の懊悩や希死念慮はもとい、なかんずく自殺の恐怖すらからも乖離しているんだから。
――そう、なのかな。人生の無い魂が、無くした人生を取り戻そうと思うのも、自然じゃない?
だって、死んだと判定したのは独断でしょ? 私はさ、あんたと違って、死にたいほどに悩んでいる自分を好きなままでいたいし、
どっちかというと遺言に従うより、反駁して、それを言い残したまま死んだふりを決め込んでいる人生と、また仲直りしたいかな。うん、仲直り。
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236: ◆MJNF8eSNUw:2022/12/18(日) 23:02:46 ID:86iqXsq.0
――お前はそういうと思った。
ヒロインが、というか主人公を道すがら、ダム湖に沈んだ村に連れてゆく、主人公と似て非なる女性が登場するんだけど、その人の考え方がお前と似てる。
――なんか言ってたね、対比がいいとかって。
――これ以上はネタバレになるから、この話はここでおしまい。
決して希望の満ち溢れた物語ではないし、心温まるわけでも、虚しさが薄まるわけでもない。淋しい物語だ。
ただ、この話を読む前と、読んだ後とでは、小説に相対する意識、心構えが変わるような話。
――口が達者なことで。
――どうも。
――あんたさ、もうすこし身だしなみを整えて、話し方とかに気をつかえば、たぶんいい人くらい見つかると思うんだけど。
――おれには無理だよ。
――伊藤は、そうだろうね、とは言わなかった。寒いから窓、閉めて、とたげ。
――ああ。
薄暗く狭い道が延々と続いており、ハンドルを握る盛岡の手だけが冷たく悴んでいる。
青臭く茂った森の葉は散り、白くささ濁りをした骨のような枝が、微風に吹かれて散った水面の月みたいだった。
そのなかに、ふと、苔むしたブランコが揺れているような気がした。
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237: ◆MJNF8eSNUw:2022/12/18(日) 23:03:26 ID:86iqXsq.0
【タイトル】水底のブランコ
【作品URL】http://coollighter.blog.fc2.com/blog-entry-167.html
【ジャンル】純文学
【あらすじ】死んだ人生の遺言に従い、入水をするまでの物語。
【アピールポイント】
息を呑むほどに美しい小説です。ブーン系で私小説乃至文学作品を読みたい方におすすめです。
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